2018年1月22日月曜日

讃州生駒家家臣 中山氏

本稿では、藩政末期に編纂された侍帳に名が見られない中山氏をご紹介申し上げる。
中山氏の初出は、
文禄五年(一五九六年)の奥書のある「生駒殿願文」である。本書には、藩主以下、百九名の氏名が列挙されており、生駒家襲封初期の家臣団氏名を知る上で稀有の史料である。そして、本文書の四十四番目に中山勝三郎、九十五番目に中山喜蔵の名が記されている。
いま一つの中山氏の名が窺える史料は、優れた土地台帳である「讃州御国中村切高惣帳」である。本文書中には、明知行と記され、従来の写本侍帳には未記載の侍が、二十七人ほど散見される。その内に、中山助兵衞の名が確認出来る。この人は、嘗て、三野郡・比地中村で50石、 豊田郡・木之郷で50石、豊田郡・粟井村で20石の地方知行を有していたことが分かる。ただし、これら中山氏は、藩政末期の侍帳からは、忽然と姿を消す。何らかの事情で生駒家を離れたのであろう。ただし、侍帳は、生駒家直臣の名のみを記した文書であるから、家老等の大身の家臣に仕えている場合(陪臣) は、その名跡を確認することは適わない。
合掌。

合田學著「讃州御国中村切高惣帳」より、豊田郡粟井村


参考文献
合田學校訂 生駒家家臣分限ノ記
合田學著   讃州御国中村切高惣帳
合田學著   生駒家家臣給人帳、知行帳                          

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。