2009年6月29日月曜日

讃州生駒家家臣 眞鍋(眞部)氏

幾つかの藩政文書から、眞鍋(眞部)氏を名乗る侍の名を抽出し、以下、列挙する。今後の家臣団研究、或いは父祖の探索の一助とされたい。

「生駒殿願文」
生駒家家臣としての眞鍋(眞部)氏の名が最初に現れるのは、生駒家讃岐襲封初期の侍名簿として名高い「生駒殿願文」である。本文書は、文禄五年(一五九六年)、高野山へ家門繁栄武運長久を祈願した際の人名録であるが、その中に生駒家当主以下百九名の侍名が記されている。真鍋弥介は本文書中五十二番目に登場する。

「讃州御国中村切高惣帳」
「讃州御国中村切高惣帳」は、生駒藩政後期の地方知行の様態を具に伝える格好の資料である。本文書中、大内郡、香西郡、豊田郡の項に、眞鍋(眞部)氏の名が伺える。以下、抽出してみよう。
郡・郷村     郷村に於ける知行高   新田の有無   知行主氏名
大内郡 梨子木    101石 1斗 9升 8合         眞部 源左衛門
大内郡 白鳥之郷 98石 8斗 2合         眞部 源左衛門
大内郡 白鳥之郷 41石 4升 3合 眞部 喜右衛門
大内郡 湊村 7石 6升 8合 眞部 喜右衛門
大内郡 横内村 50石 眞部 喜右衛門
香西郡 飯田之郷 50石 眞鍋 彦太郎
豊田郡 和田里 21石 21石 眞鍋 与三右衛門
豊田郡 和田里 10石 10石 眞部 源左衛門
豊田郡 和田里 4石 4石 眞部 喜右衛門
豊田郡 丸井村 29石 3斗 眞部 与三右衛門
豊田郡 粟井村 9石 7斗 眞鍋 与三右衛門
豊田郡 植田村 83石 眞部 与三右衛門
豊田郡 池尻村 67石 眞鍋 与三右衛門

「生駒家家臣分限ノ記」
生駒家家臣(生駒宗家直臣氏名)を網羅した人名録として、侍帳、或いは分限帳と称される書冊が今日まで伝わっている。此処では、上坂氏顕彰会が所蔵する「生駒家家臣分限ノ記」に記載されている眞鍋(眞部)氏を名乗る侍名を書き出してみよう。
石崎若狭組 二百十石 (西) 眞鍋与三右衛門[自分開二十一石]
浅田図書組 二百十石 (西) 眞部源左衛門[自分開十石]
浅田図書組 百二石 眞鍋喜右衛門[自分開四石]
留守居   五十石 眞鍋彦太郎
家中子供 三人扶持 眞鍋九郎太夫
家中子供 三人扶持 眞鍋兵左衛門
御供番 切米三十五石 眞部源左衛門<圓智院様附>
浅田図書組の眞部源左衛門と同一氏名の侍が圓智院様附と記され再登場している。これが同一人士なのか別人なのか定かではない。ただ、本書の江戸証人米の項に、切米百石・生駒左門、切米六十石・西嶋八兵衛と家老と奉行の二人が重複記載されている例もあるので、眞部源左衛門が大番組(浅田図書組)と御供番(圓智院様附)を兼務した可能性が大である。因みに圓智院様附の侍として、今一人、氏家庄介の名が記されている。圓智院様とは、藤堂家から生駒家に嫁いでこられた方で、生家は氏家氏、藤堂氏の養女となり、生駒家に参った人である。その氏家を名乗る侍と同役に就いているところから、この人は、圓智院様(藤堂家)の信頼が厚かったことが想像される。、
亦、家中子供として、二人の侍が扶持をいただいているのも興味深い。

「家中屋敷割」
生駒家家臣団と松平家家臣団の名前を併記した高松城下の屋敷割りに関する文書が現存しており、眞部源左衛門、眞鍋与三右衛門の二人が高松城下西浜で屋敷を拝領していたことが確認される。

眞鍋(眞部)氏の知行所は東西に二分されているにも拘らず、豊田郡和田里で三人の眞鍋(眞部)氏が新田開削を行っている。このことは特筆しておいて良かろう。亦、生駒家騒動に関しても、生駒宗家に見切りを付けた侍を排出している。国人層出身の家臣団としては、河田氏と並び、異色の存在である。
当時、地方知行が給されていたので、知行が集中している箇所に地方の屋敷があったことが推定される。当該地域の寺社の棟札等を探索すれば、大檀那何某と記された眞鍋(眞部)氏の名を見出すことが出来るかもしれない。末裔の方々の今後の研究に期待したい。
合掌。