2018年1月28日日曜日

讃州生駒家家臣 眞野氏(真野氏)  その二

インターネットというツールは、とても便利なのだが、時に、思わぬ落とし穴がある。ここで取り上げる眞野氏、眞野氏で検索すると真野氏もヒットするが、真野氏で検索すると眞野氏が現れないことの方が多い。ただ、古文書を翻刻するに当たって、本来の字義通り記すと、やはり、眞野氏となる。だから、真野氏を調査するのであれば、眞野氏で検索することも肝要となる。このこと、留意しておかなくてはならない。
さて、過日、大倉桃郎(おおくらとうろう)氏の著した「慶長武士」に収録された眞野左大夫頼孝に関する文章を講読した。予ねて、眞野氏の名を讃州生駒家の侍帳で見出していた僕にとって、それは誠に喜ばしいことであった。
今、その二として、2000年8月15日に刊行していた「五種の生駒家侍帳に於ける記載の異同(地方知行を給された家臣のみ)」から、眞野氏に関する記述をアップロードする。眞野豊後後家(100石)、そして、眞野勘右衛門(500石)の名が、全ての侍帳に記されている。亦、眞野小源太に関しても、三種の侍帳にその名が見える。

付言すれば、こうした人名録以外、優れた土地台帳である「讃州御国中村切高惣帳」でも、彼らの知行所が確認されるから、眞野豊後の一族、彼らは、確かに、讃岐の地を踏んでいる。
合掌。

五種の生駒家侍帳に於ける記載の異同(地方知行を給された家臣のみ)


参考

讃州生駒家家臣 眞野氏(真野氏)  その一
http://iewake.blogspot.jp/2012/03/blog-post.html


付記
秀吉公創業期の家臣団名が記されている竹生島奉加帳を紐解くと、上坂卜眞齊信貞の名と共に、眞野左近(真野左近)の名も散見される。
合掌。

2018年1月22日月曜日

讃州生駒家家臣 中山氏

本稿では、藩政末期に編纂された侍帳に名が見られない中山氏をご紹介申し上げる。
中山氏の初出は、
文禄五年(一五九六年)の奥書のある「生駒殿願文」である。本書には、藩主以下、百九名の氏名が列挙されており、生駒家襲封初期の家臣団氏名を知る上で稀有の史料である。そして、本文書の四十四番目に中山勝三郎、九十五番目に中山喜蔵の名が記されている。
いま一つの中山氏の名が窺える史料は、優れた土地台帳である「讃州御国中村切高惣帳」である。本文書中には、明知行と記され、従来の写本侍帳には未記載の侍が、二十七人ほど散見される。その内に、中山助兵衞の名が確認出来る。この人は、嘗て、三野郡・比地中村で50石、 豊田郡・木之郷で50石、豊田郡・粟井村で20石の地方知行を有していたことが分かる。ただし、これら中山氏は、藩政末期の侍帳からは、忽然と姿を消す。何らかの事情で生駒家を離れたのであろう。ただし、侍帳は、生駒家直臣の名のみを記した文書であるから、家老等の大身の家臣に仕えている場合(陪臣) は、その名跡を確認することは適わない。
合掌。

合田學著「讃州御国中村切高惣帳」より、豊田郡粟井村


参考文献
合田學校訂 生駒家家臣分限ノ記
合田學著   讃州御国中村切高惣帳
合田學著   生駒家家臣給人帳、知行帳