2012年12月29日土曜日

讃州生駒家家臣 三好氏

三好氏を名乗る侍は、二人(三好加介、三好半之丞)、確認することが出来る。亦、生駒家襲封初期の家臣団名を伝える高野山文書中にも一人(三好半介)の名が認められる。
合掌。

参考
高野山文書に見る生駒家襲封初期の侍名簿
合田學校訂 「生駒家家臣分限ノ記」   



合田學著「讃州生駒家給人帳(第四版1999年6月5日刊)」より、当該資料を抽出した。



合田學著「讃州生駒家知行帳(第四版1999年6月5日刊)」より、当該資料を抽出した。



合田學著「讃州多度郡志史料篇-1(第三版2001年7月15日)」より、当該資料を抽出した。



合田學校訂「生駒家家臣分限ノ記(第四版1999年9月11日刊)より、当該資料を抽出した。


追記
「生駒家家臣分限ノ記」に於いて、留守居の項に記されている三好加介、「讃州御国中村切高惣帳」では、明知行の注記と共に、多度郡吉田村で、其の名が伝えられている。此れに依って、各文書の成立時期が勘案されると同時に、生駒家の改易を待たず、三好加介が死去、若しくは何らかの理由で藩籍を離れたことが推測される。
合掌。

2012年11月9日金曜日

讃州生駒家家臣 植松氏

植松氏を名乗る侍は、都合二人確認することが出来る。 生駒氏が、植松茂兵衛と香西新十郎に、讃岐香西氏最後の当主、宗哥(香西伊賀守)の堪忍領があった笠居之郷に知行所を与えたこと、感慨深いものがある。
合掌。


参考
合田學著「讃州香西郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代」
合田學校訂「生駒家家臣分限ノ記」  



合田學著「讃州生駒家給人帳(第四版1999年6月5日刊)」より、当該資料を抽出した。



合田學著「讃州生駒家知行帳(第四版1999年6月5日刊)」より、当該資料を抽出した。




合田學著「寛永年中讃州生駒家知行帳グラフ篇(第三版2001年11月18日刊より、当該資料を抽出した。




合田學校訂「生駒家家臣分限ノ記(第四版1999年9月11日刊)より、当該資料を抽出した。

讃州生駒家家臣 香西氏

香西氏を名乗る侍は、都合三人確認することが出来る。宗哥は香西氏最後の当主、香西伊賀守である。亦、他の二人が鷹匠であること、これは一考を要する。
合掌。


参考
合田學著「讃州香西郡志 史料篇-1 生駒氏統治時代」
合田學校訂「生駒家家臣分限ノ記」  



合田學著「讃州生駒家給人帳(第四版1999年6月5日刊)」より、当該資料を抽出した。



合田學著「讃州生駒家知行帳(第四版1999年6月5日刊)」より、当該資料を抽出した。







合田學著「寛永年中讃州生駒家知行帳グラフ篇(第三版2001年11月18日刊より、当該資料を抽出した。





合田學校訂「生駒家家臣分限ノ記(第四版1999年9月11日刊)より、当該資料を抽出した。





この二葉のグラフは、香西氏に縁のある香西郡笠居之郷の生駒氏統治時代の様態を示すものである。
合掌。

2012年11月8日木曜日

讃州生駒家家臣 佐藤氏

佐藤氏を名乗る侍は、都合十一人確認することが出来る。内、二人が高松城郭内に、三人が高松城西浜に屋敷を拝領している。亦、四人が、家中騒動の際、藩主高俊に見切りを付け、藩を退いた。
合掌。

参考
高野山文書に見る生駒家襲封初期の侍名簿
幕府穏密の讃岐探索記録に見る生駒家上級家臣団名簿 
合田學著 「生駒時代高松城侍屋敷図(郭内篇)」



合田學著「讃州生駒家給人帳(第四版1999年6月5日刊)」より、当該資料を抽出した。





合田學著「讃州生駒家知行帳(第四版1999年6月5日刊)」より、当該資料を抽出した。





合田學著「寛永年中讃州生駒家知行帳グラフ篇(第三版2001年11月18日刊)より、当該資料を抽出した。











合田學校訂「生駒家家臣分限ノ記(第四版1999年9月11日刊)より、当該資料を抽出した。


付記
本日、佐藤氏を名乗る方からご連絡をいただき、明日お会いする約束をした。此れを期に、佐藤氏に関するデータを纏め、アップロードする。
合掌。

2012年8月12日日曜日

讃州生駒家家臣 齊藤氏

齊藤氏を名乗る侍は、都合三人確認することが出来る。内、一人が、高松城西浜に屋敷を拝領している。亦、三人全てが、家中騒動の際、藩主高俊に見切りを付け、藩を退いた。
同氏の場合、地方知行は給されていないが、切米、扶持米、金銀の数値が大きいので、此処に収録した。
合掌。

参考
上坂眞信著 「生駒騒動」



合田學著「讃州生駒家給人帳(第四版1999年6月5日刊)」より、当該資料を抽出した。





合田學校訂「生駒家家臣分限ノ記(第四版1999年9月11日刊)より、当該資料を抽出した。

讃州生駒家家臣 桑山氏

桑山氏を名乗る侍は、都合二人確認することが出来る。内、一人が高松城郭内に、一人が高松城西浜に屋敷を拝領している。亦、二人全てが、家中騒動の際、藩主高俊に見切りを付け、藩を退いた。
合掌。

参考
合田學著 「生駒時代高松城侍屋敷図(郭内篇)」
上坂眞信著 「生駒騒動」
合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」  



合田學著「讃州生駒家給人帳(第四版1999年6月5日刊)」より、当該資料を抽出した。



合田學著「讃州生駒家知行帳(第四版1999年6月5日刊)」より、当該資料を抽出した。





合田學著「寛永年中讃州生駒家知行帳グラフ篇(第三版2001年11月18日刊より、当該資料を抽出した。

讃州生駒家家臣 國友氏

國友氏を名乗る侍は、都合三人確認することが出来る。内、一人が、高松城西浜に屋敷を拝領している。亦、二人が、家中騒動の際、藩主高俊に見切りを付け、藩を退いた。
合掌。

参考
上坂眞信著 「生駒騒動」



合田學著「讃州生駒家給人帳(第四版1999年6月5日刊)」より、当該資料を抽出した。



合田學著「讃州生駒家知行帳(第四版1999年6月5日刊)」より、当該資料を抽出した。



合田學著「寛永年中讃州生駒家知行帳グラフ篇(第三版2001年11月18日刊より、当該資料を抽出した。

讃州生駒家家臣 喜多村(北村)氏

喜多村(北村)氏を名乗る侍は、都合二人確認することが出来る。内、一人が高松城郭内に、一人が高松城西浜に屋敷を拝領している。亦、二人全てが、家中騒動の際、藩主高俊に見切りを付け、藩を退いた。
合掌。

参考
合田學著 「生駒時代高松城侍屋敷図(郭内篇)」
上坂眞信著 「生駒騒動」
合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」  



合田學著「讃州生駒家給人帳(第四版1999年6月5日刊)」より、当該資料を抽出した。



合田學著「讃州生駒家知行帳(第四版1999年6月5日刊)」より、当該資料を抽出した。





合田學著「寛永年中讃州生駒家知行帳グラフ篇(第三版2001年11月18日刊より、当該資料を抽出した。